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2025文化とは
「この世には移ろわぬものがあるという安堵感を年ごとにたしかめるに相違ない」
様々なところで、日本文化、地域文化、家族の文化が薄れつつあります。たとえば職人の親方が、毎朝神棚に安全を祈願する、同じルーティーンで準備する、これらもその家庭の文化であり、心に安寧をもたらしています。
毎年おこなわれる盛大なお祭りも、きっと宗教的な「神様」のご加護だけではなく、ひとびとに「今年もやっとる」と安堵感をもたらしているのです。
司馬遼太郎氏の「アメリカ素描」で、文化や文明とは何かと問われたときにしばしば引用される有名な文章があります。
「例えば青信号で人や車は進み、赤で停止する。この場合の交通信号は文明である。逆に文化とは、日本でいう、婦人がふすまをあけるとき,両ひざをつき、両手であけるようなものである。立ってあけてもいいという、合理主義はここでは、成立しえない。不合理さこそ、文化の発光物質なのである。同時に文化であるがために美しく感じられ、その美しさが来客に秩序についての安堵感をもたらす。ただし、スリランカの住宅にもちこみわけにいかない。だからこそ文化であるといえる。」
文明は「普遍的で便利で・合理的なもの」文化は「むしろ不合理なものであり、特定の集団(たとえば民族)においてのみ通用する特殊なもの」「逆に言えば不合理でなければ文化ではありえないのではないか。それに堪えて不断にくりかえすというところに他とちがった光がでてくるともいえる」
文化が、人々に安寧をもたらすものだとするならば、絶やしてはいけないこと。面倒だから今年からやめてしまおう、もっと合理的にしよう、などという考え方は、もしかしたら「時代だからしかたない」と簡単にかたづけてはいけないことなのでしょう。そして、特定の集団において行われる文化こそ、インターネット時代の中で、より光を放っていくことなのかもしれません。

